完璧主義でも最先端でもないんだぜ。

 
以前、敬愛する先輩に「ミゾジリ君は恐縮キャラだから」と言われたことがある。


確かにそうかも知れない。ただ、自分としては卑屈になってるつもりは全くなくて、
素直に、単純に、諸先輩方の研究を見ていると「自分などはとても敵わない」と
思ってしまうだけなんだけれど。


もちろん、自分にだって「いくら何でもこの研究はヒドい…」と思うことは
たくさんあるし、場合によってはそうした研究を批判することもある。
またそこまでは行かなくとも、基本的に研究っていうのは、先人たちの遺して
きた成果に対して、ほんの少し方向性を変えてみたり、上に積み重ねてみたり
する営みである訳で。そういった意味では、研究すること自体が先行する業績の
「批判的乗り越え」なんだし、またそうあるべきだと思う。


でも自分は、そうした先行研究を乗り越えようとする前に、まだまだそこから
吸収するべきことがあるんじゃないかと、どうしても思ってしまう。それは、
自分が乗り越えるべき壁を未だ見出すことができていないという意味において
欠点なのかも知れないし、もしかすると、そうした壁から逃げてるだけなのかも
知れない。





自分が親しくしているある先生は、自分の初めての単著が世に出たとき、
「これで世界は変わる!」と思ったという。
確かにこの業界において、その本が出たことの影響は大きかったし、
その意味で、少しではあるけれど、本当に世界は変わったといえる。
でもそれ以上に自分は、その先生が自分の研究で「世界は変わる!」と
思えたこと自体を、素直にすごいと思ってしまう。


白状すると、自分は自分がやっている研究に自信を持ったことがあまりない。
いつも「この方法で本当にいいんだろうか?」「もっと他にやり方があるんじゃ
ないだろうか?」「そもそもこの研究はどんな意味を持っているんだろうか?」と
自問しながら、こうした問いに対する、あくまで現時点での、自分なりの解答を
出すために、研究を続けている…つもり。


だから、論文を書いているときも、自分は「これで世界は変わる!」とは絶対に
思えない。むしろ「果たしてこれでいいんだろうか…?」という感覚の方が先に
立ってしまうし、研究成果が世に出たときも、もちろん満足感はあるけれど、
それと同じくらい、不安や後悔(「ここは違うように書いた方がよかったかも…」)を
感じてしまう。





そして研究成果を世に出せば、当然いろいろな形で批判を受けることもある。
でも、よほど的外れなコメントだったり、中傷に近いような「非難」でない限り、
自分は批判をされること自体は素直に嬉しいと思うし(それはそれだけ真剣に
読んでもらえたってことだ)、そうした批判に対しては再反論するよりも、
むしろ積極的に受け入れて、次の試行錯誤へとつなげたいと思ってしまう。


でもこうした態度が、人によっては、許し難い日和見主義者に映ることも
あるだろう。自分の研究で「世界は変わる!」と思えるような強さもまた、
この仕事を志す人間には必要な資質なんであって、自分の研究に自信を
持つことができないこの性格は、たぶん、研究者としては、欠点なんだと思う。




ただ、自分にそんな強さはないけれど、研究を続けること自体には必ず何か意味が
あると信じているし、悩みつつも自分なりの信念を持って研究をやっていることには
変わりない訳で。自分はそうやって自問自答を繰り返しながら、「恐縮キャラ」な
研究者を目指して、研究に没頭しつづけるしかないんだろーなー。
 
 
 

…とまあ、そんな言い訳を用意して、今日もまた自信を持てない原稿書きに
勤しむ毎日でございます。