爆発しそうにTVが怒鳴ったBad News.


もちろん、そんな昔から注意してメディア報道を見ていた訳ではないので、
ひょっとしたら自分が気づかなかっただけかもしれないけれど…。


自分が子どもの頃にも、政治家やら企業やらが不祥事を起こしたときに、
記者会見で真っ先に出る質問は「辞職する意志があるか」だっただろうか?
少なくとも自分には、こうした傾向は最近のことに感じられて仕方がない。
そしてこういう質問の仕方に、自分はどうしても違和感を覚えて仕方がない。


たとえば株主であれば、ある企業が不祥事を起こしたときに、その経営者が
辞職するか否かは極めて重要な情報だと思う。また直接的な被害を受けた人に
とっても、「辞めてしまえ!」というのは自然な感情かも知れない。
でも、株主でも直接被害を受けた訳でもない世の中の99.9%の人たちにとって、
「経営者が辞めるか否か」という情報は、全く価値がないとはいえないまでも、
少なくとも最初に質問しなきゃいけないほど優先度が高いものとは思えない。


ただ、そうはいっても、実際のメディア上では極めて重要な情報として
「辞職の意志の有無」が語られ、特に当人にその意志がない場合、激しい
経営者(あるいは任命者/当事者)バッシングが始まるのが、ほとんど定型に
なっている。しかも、これは比較的最近になって始まった現象である
(ように思う)。これはいったいどういうことなのだろう?




同じことは、犯罪報道にもいえるかも知れない。
ニュース番組は、大抵「一刻も早い動機の解明が待たれます」という定型句で
犯罪報道を締めることが多いけれど、「なぜ視聴者は、容疑者の動機の解明を
待たなければならないのか?」という問いに、きちんと答えている報道機関を、
少なくとも自分は見たことがない。


もちろん、警察や検察が「動機の解明に全力を挙げる方針」を掲げるのは
当然だと思う。全力を挙げて動機を解明し、全力を挙げて証拠を集めて、
事件の全容に少しでも近づいた上で、妥当な求刑を行うことが、彼(女)らの
使命なのだから。でも、やはり警察でも検察でも被害者でもない99.9%の人は、
なぜ「動機の解明を待た」なければならないのだろうか?


しかも、待ちに待った動機が仮に解明されたとしても、それによって
99.9%の人たちの溜飲が下がることは、やはり99.9%ない。


その動機の内容が多くの人々に理解されにくいようなものだったとしたら、
(「世の中が嫌になった」「誰でもよかった」etc...)、その彼(女)らは
容疑者や被告の「心の闇」に怒る訳だし、比較的それが分かりやすいもの
だったとしても(「金銭トラブル」「男女トラブル」etc...)、結局のところ
「被害者の気持ちを考えれば…!」という論理で容疑者・被告は断罪される。


つまり動機が解明されてもされなくても、結局人々は怒りを顕わにするので
あって、動機の有無や内容によってその反応が変わる訳では、おそらくない。
ならば、そもそも、なぜ動機は解明されなければならないのか?




結局、現在の事件報道は、加害者に対する送り手/受け手の
「合法的集団リンチ」になっているってことなんだと思う。


時代劇で、よく重罪者に「市中引き回しの上、打ち首獄門!」という刑罰が
言い渡されることがある。「市中引き回し」は死刑執行前に馬に乗せられて
江戸中を練り歩くことで、「打ち首獄門」は斬首の上、晒し首にされること。
娯楽に乏しかった近世の人々にとって、こうした公開処刑はまたとない
イベントで、多くの見物客を集めたという。


周知の通り、江戸幕府は極めて強固な身分制を作り上げた訳だけれど、
巧妙なことに、幕府は平民たちのガス抜きのためのシステムを周到に
用意しており、こうした公開処刑の制度も、その中の一つだったといえる。
絶対正義の側から、絶対悪に対して残酷な欲望を行使させることで、
いわば「ストレス解消」を図った訳だ。



最近mixiやらYahoo!ニュースやらを見ていると、事件や犯罪が報道された
途端に「責任者は辞職しろ!」「容疑者は死刑にしろ!」などといった
コメントが書き連ねられて、気が滅入ることが多い。
(彼(女)らは推定無罪という言葉を知らないんだろうか?)


江戸時代の「市中引き回し」は、あくまで死刑が確定した犯罪者に対して、刑執行の
直前に行われるものだった。それに対して、現在のメディア報道と、それを見て憤る
99.9%の人たちがやってることってのは、刑はおろか、果たして本当に犯人なのか、
責任があるのか(あるとしてどの程度あるのか)も全く確定していない段階で
「市中引き回し」を行い、挙句の果てには「打ち首獄門」までも要求しているのと
同じことにしか思えない。



もちろん、加害者に対する責任の追及は報道の使命の一つだし、それが社会に
対する一つの犯罪/不祥事の抑止力になっていることは認めます。
でも「なぜ、何のために、責任を追及しなければならないのか?」という問いを
引き受けることもなく、記者会見の場で土下座を要求し、辞めるか/辞めないかを
問い詰めているんだとしたら、それこそただの「言葉の集団リンチ」でしかない。


そして、事件や犯罪を報道する側の態度が「集団リンチ」化していることと、
見る側も、そうした報道を見て相手への怒りを顕わにすることで、江戸時代と
同様の「ストレス解消」をしている現状とは、表裏一体なんだと思う。




みんなで江戸時代に戻りたいんであれば、それもまたいいのかも知れない。
けれど、そうした残酷な欲望を理性で抑えようという発想から近代国家は
始まった訳だし、いかにしてそれを実現するかをめぐり試行錯誤を重ねて
きたその過程こそが、ここ百数十年の日本の歴史ではなかったのか…。






と、まあ、こうしてメディア報道とそれに対する受け手の反応を嘆く自分自身が、
実は一番メディアに怒りを煽られているというパラドックスよ…。