ラブホテルだョ!全員集合


昨年末、名古屋大学で行われた日本ポピュラー音楽学会の全国大会で、
「放送メディアとポピュラー音楽―音楽番組研究の現在」という
ワークショップを開催しました。


「ポピュラー音楽研究」をフィールドにしているメディア研究者として、
テレビやラジオの音楽番組を学術的に研究していくにはどうすればいいかを
みんなで議論したい、という、私の個人的な問題意識から企画した場でした。
(意外なことに、ポピュラー音楽研究の文脈で音楽番組に焦点を当てた
研究というのは、日本ではとても少ないのです。)



このワークショップの企画を練っている最中に、1970年代のテレビ番組に
ついての論考を集めた論文集、長谷正人・太田省一編『テレビだョ!全員集合
―自作自演の1970年代』(青弓社)が出たのは全くの偶然です。でも自分には
全然偶然とは思えず、結局当日の議論も、この本に書かれていた内容を中心に
回してしまいました。


自分が衝撃を受けたのは、この論集に掲載された社会学者・太田省一氏の
「視るものとしての歌謡曲―七〇年代歌番組という空間」なる論考です。
実は私、この論考を読んで、本気で「悔しい」と思ってしまったのでした。
「あー、やられてしまったかー(´・ω・`)」と。


小さな学術雑誌に論文を数本書いただけの、一介の大学院生に
過ぎない自分が、多くの研究実績を持ち、評価も得ている先生の
論考に「先にやられてしまった感」を抱くなんて、不遜にも程があるし、
それは十分に自覚もしているつもりだけれど、それでもやっぱり、
自分には悔しくてならなかった。


自分もポピュラー音楽研究の末端にいる人間として、音楽番組については
踏み込んだ分析の必要性を感じていたし、修士論文では1970年代の音楽番組の
状況について考察してもいます。自分にとって愛着のある(そして執着もしている)
素材だからこそ、分析の角度は違えど、この素材を分析した論考が先に出版物
として世に出されたことが、悔しくてならなかったのです。


しかも、もしもこれがどーでもいい(そして最近よくある)「研究もどき」の論考
だったなら、「やはり自分がガンバらねば(`・ω・´)」という気にもなったん
やろけど、太田氏は自分もとても尊敬している社会学者だったし、今回の
論考も分析の切れ味は鋭くて、自分などはただただ驚嘆するのみ。


だからこそ余計に、同じ素材に着目していたにもかかわらず、
未だそれを世に問うレベルまで持っていくことが出来ずにいる
自分の未熟さを突きつけられた気がして、悔しかったのです。



こんな議論(というか完全に自分の個人的な愚痴)をワークショップでふっかけて
みたら、「自分も同じように感じた」と言ってくださる先生方もいらっしゃったのが、
せめてもの救いかなー。そうした先生方とも切磋琢磨しながら、いつの日か
太田氏をあっと言わせるような「音楽番組論」を書きたいと思う、今日このごろ。


テレビだョ!全員集合―自作自演の1970年代

テレビだョ!全員集合―自作自演の1970年代




…というのが昨年末の話。


で、何故いまごろこんな話を持ち出したのかというと、つい先ほど
文春新書の新刊、金益見「ラブホテル進化論」(文藝春秋)を読んで
しまい、そして全く同じ感想を抱いてしまったからなのでした。


うーん、やっぱり悔しい(´・ω・`)


実は私、昨年末のポピュラー音楽学会の1ヶ月前に、今度は日本マス・
コミュニケーション学会の大会で、「日本におけるビデオテクノロジー
普及/流通をめぐるメディア史―アダルトビデオの生成とその受容空間の
変容を軸に」というタイトルの個人報告をしたのですが、その時にやはり
1970年代のラブホテルの変遷について調べていたのでした。


報告タイトルからも分かるように、自分の研究の論点は「ビデオテクノロジー
普及過程において、アダルトビデオ(と、その受容空間であったラブホテル)は
決定的に重要であった」という点にあるので、別にラブホテル自体はメインの
研究テーマではありません。とはいっても、やっぱりこの時代のラブホテルは
研究の素材として面白いし、今年中にはそれらを上手く組み合わせて論文に
したい、と思っていただけに、悔しい…。



そして何より悔しかったのは、やはりこの著者の分析手法が、
自分には到底マネできないものだったこと。


このテーマ、素材としては面白いのだけど資料が極端に少ないのが悩みです。
男性週刊誌などに書かれた記事を丹念に調べれば、それなりに状況は把握
できるのですが、そうした記事をいくら調べても、それで本当に当時の人々の
リアリティを捉えたことになるのか、という点になると、どうしても疑問が
残ります。


そしてこの欠点を埋めるためは、フィールドワークで当時の証言を集めていく
しかないのですが、業界が業界だけに、取材もなかなか難しいのが実状です。
(学会での報告を論文にするのが遅れていたのは、この段階で、研究を続けて
いくことに二の足を踏んでしまっていたからなのでした…)


でもこの著者は、とにかく足を使って、膨大な量の情報を集めた。
「思考が止まったら足を使え」という実証系の社会学の鉄則を、
彼女は忠実に守って、そしてこれだけのリアルな証言を集めた訳です。
(しかも著者は同い年の博士課程の大学院生だ)


自分がどうしようもなく感じてしまうこの悔しさは、「自分もやるべきだったのに
やっていなかった」ことを、やられてしまったことに対する悔しさ、なんやろな…。
自分と同じ立場の人間に、自分が出来ずにいたことをやられてしまった悔しさ。
それは同時に、「現場」に飛び込めずにいた、自分の臆病さに対する悔しさ。



もちろん学術的にはいろいろ不満もあります(ただ新書なので、そもそも
そういうアカデミックな読み方を前提にしてないんやろけど)。でも何より
悔しいというか、もう打ちのめされてしまったのは、この本を評した評論家の
(そしてやはり尊敬する社会史研究者でもある)井上章一氏の言。


 主知的で現場取材をおっくうがる若い学徒も多い今日、この健脚ぶりは
 貴重である。私も、著者には、知力にまさるすばらしい武器をもっていると、
 脱帽する。 (http://www.bunshun.co.jp/yonda/love/love.htm)


まるで自分に向けられたかのような痛烈な批判…。ただひたすら、反省です。
心機一転、襟を正して、真摯に、「現場」と向き合いたいと思います。
そしていつの日か、金氏をあっと言わせるような「ラブホテル論(というよりは
ビデオ論ですが)」を書きたいと思う、今日このごろ。


こうしたやりきれない悔しさを、何とか博士論文にぶつけて
昇華させていくためにも、ガンガります(`・ω・´)


ラブホテル進化論 (文春新書)

ラブホテル進化論 (文春新書)