忘れはしないよ、時が流れても。


気がつけば、九州の片田舎から東京に出てきてもう丸5年
(つくば時代も合わせると丸9年!)が過ぎてしまいました。
現在の大学院に入ってから、という単位で考えても既に3年が
経過している訳で、そろそろ自分も「東京の研究者(見習い)」を
自称しても怒られないんじゃないか…と思っています。


もちろん「現住所は東京でも心は地方民!」というアイデンティファイの
仕方もある訳で、長い間住んでるから東京人、という訳でもないのですが、
2月16日の日記でレビューした『東京から考える』のような、固有名詞満載の
東京論を読んでも十分に楽しめるようになった、という点では、少なくとも
自分の研究者(見習い)としての拠点は、やっぱり東京にあると言っていいと
思うのです。


研究の拠点を東京に置くことのメリットはいくつもあるのですが、逆に
この地域的な有利さに寄りかかりすぎてしまうと、就職などで東京を
離れてしまったときに、「自分は研究者として何をする/何ができるのか?」
という深刻なアイデンティティ・クライシスに陥る危険性もあって、実は
いまからとても不安に感じているところだったりします。


たとえば、自分は雑誌などの文献資料を発掘しながらそれを整理・解釈し、
メディアの歴史を記述していく「メディア史」という研究を専門にしている
人間なのですが、それは文献資料がないところでは研究ができない、と
いうことと紙一重です。


世間の流れとは裏腹に、相変わらずの就職難が続いている研究者業界。
「東京の大学にしか就職したくない!」などという贅沢はとても言えない
状況なので、むしろ「雇ってくれる大学があるならどこでも行きます!」
というのが研究者を目指す院生としての偽らざる本音なのですが、とはいえ
図書館などのアーカイブが充実していない地方の大学に就職した場合、
「自分はどうやってメディア史の研究を続けていくんだろう…」という不安を
感じているのも、また事実。


「文献調査だけじゃダメだ!フィールドワークの方法も勉強しておかなくちゃ」
と思って調査実習に参加してみたり、その「来たるべき時」に備えて自分なりに
がんばってはいるつもりなのですが、でも自分の研究の「ウリ」はやっぱり
史記述にあると思っているので、その辺の折り合いをいかに上手くつけるか、
という問題は、極めて難しい。




…と、そんなことを考えていたときに、先述の難波功士氏と同じく、
自分にとってはメディア史研究の大先輩である山口誠氏の新刊、
『グアムと日本人―戦争を埋立てた楽園』(岩波新書,2007)を読了。


日本の戦前のラジオの歴史を描いた前作(『英語講座の誕生』講談社,2001)は、
自分の研究でもとても参照させていただいていただけに、先日学会でお会いして
「いまはグアムでフィールドワークをやっている」というお話を伺ったときには
衝撃を受けたものでしたが、この本を読んで、納得。


と同時に、「東京(という文献資料の集積地)を離れて、いかにメディア史の
研究をやっていくか」なんて問題で悩んでいた自分が、少し恥ずかしくなる。
この考え方自体、やはり「日本/東京」中心史観とでもいうべきものであって、
「海外/地方」には「海外/地方」の歴史がある訳で。


仮にもメディア史研究者を自称するのであれば、その「海外/地方」が、
「日本/東京」においていかに表象されてきたのか(あるいはその逆)など、
どこに行ったって考えるべきことはあるし、それは決して東京での文献調査に
よってのみ明らかにし得ることではないのではないかと。自分の固定観念
(甘え心?)に対して、厳しい批判を受けたように思ったのでした。



もちろん山口氏の本書は、基本的には日本におけるグアム表象の歴史を
追ったものであり、したがって日本での文献調査が占める比重も非常に
大きいといえます。


でも山口氏が言うように、「忘れたことさえ忘れてしまう」プロセスを明らかに
するのがメディア史研究なのだとしたら、その「忘れたこと」を描くためには、
「忘れられた」地理的・空間的リアリティを無視することはできないはずです。


「いかにして忘れたのか?」という問いには、当然、「誰が(アクター)」や
「いつ(時代背景)」だけではなく、「どこで/どこを(空間的・地理的条件)」
という要素が組み込まれていて然るべきなのに、自分がやってるような、
文献調査に重きを置きがちなメディア史研究は、(その文献の多くが東京で
記述されたものであるが故に)そうした空間的・地理的リアリティを「忘れて」
しまっているのではないか。そんな問いを突きつけられたような気がしました。



本書はその分析において、フィールドワークが非常に重要な位置を占めて
いますが、かといってグアムの歴史をミクロに描いた文化人類学の本では
決してなく、あくまでグアムが日本(そして東京)においていかに表象されて
きたかを描いた、メディア史研究の本であるといえます。


そしてメディア史的な文献調査の方法論を押さえつつも、日本/東京が
「何を忘れたのか」をより詳細に描くために、すなわちそこで忘れられた
「空間的リアリティ」を描き出すために分厚いフィールドワークを行った
本書からは、いまの自分なんぞには到底たどりつけないメディア史研究の
奥深さと、厳しさと、そして面白さを見せつけられたように思います。




…ダメだー。なまじ面識のある方(そして尊敬している先輩)の作品なだけに、
「著者のリアリティ」を「自分のリアリティ」に勝手に重ね合わせて自分の
ダメさ加減を思い知るのみで、作品内在的な批判ができない。


こういう読みしかできないこと自体、まだまだ半人前にもなれていない
何よりの証拠だと思うのですが…(以下無限ループ)。


グアムと日本人―戦争を埋立てた楽園 (岩波新書)

グアムと日本人―戦争を埋立てた楽園 (岩波新書)