会社とは何だ、人生とは何だ、文化人とは何だ。

  
南後由和・加島卓編(2010)『文化人とは何か?』東京書籍 読了。編者のお二人からご恵投いただきました。ありがとうございました。
 
 

文化人とは何か?

文化人とは何か?


どうしても「論壇」とか「知識人」みたいな世界に距離を感じてしまうダメダメ研究者の自分は、何となくこの本も(タイトルだけ見て)ハードルの高さを感じてしまっていたのだけれど、読んでみると全然そんなことはなく、「文化人」という言葉で形象される世界の広さと、意外に身近にある「文化人」現象の数々について、いろいろ考えさせられることになった。

高野光平氏のCM論や、加島卓氏のデザイナー論、難波功士氏の広告業界論などはやっぱり何度読んでも安定感がある。語る対象はその都度変われど、主張は一貫していて、読むたびに僭越ながら「上手いなー」と感心してしまうことしきり。

その他にも、飯田泰之氏,荻上チキ氏,佐倉統氏などは、やっぱり文章そのものが彼らが持つ「芸」になっていると思う(もちろん良い意味で)。そんな彼ら自身を「文化人」と呼ばずして、なんと呼ぶのか。ある意味では、この本自体が「文化人」なる人々の振る舞いを遂行的に示しているようにも感じられてならない。


その中で興味深かったのは、新藤雄介氏の論考「ニュースキャスターの振る舞い―ジャーナリストと文化人の間」。久米宏筑紫哲也を対比させつつ、ニュースキャスターが「文化人」に見えてしまう構図がいかに生成されていったのかを、丁寧に描いている。メディア史としては非常にオーソドックスな書き方だけれど、読みごたえがあって面白い。

(ただ、自分にとっては面白かったのだけど、同時代的にこの二人を見てきた人にとって、この歴史分析がどう映るのかは気になるところ。若手が戦後史を書くときに否応なく立ち現われてしまう限界が、ひょっとしたら出ているかもしれない。)


一方で、逢坂巌氏の選挙報道に関する論考は、『文化人とは何か?』というこの本の中の位置づけが、少々分かりにくかったように思う。「文化人としてのテレビ(受像機)」と言われてしまうと、メディア技術マニア・マニアの自分としては、どうしても違う位相の話(「文化人としての(マテリアルな)テレビ」)を期待してしまうのだが…。


と、そんな感じで楽しく読ませてもらったのだけど、どうしても疑問を拭えないのは、それぞれの論考が前提としていた「文化人」(なる人々や現象)の存在って、そもそも前提にできるんやろか?という点。つまり、

「〈文化人〉という言葉は人口に膾炙している分だけ、どうにでも語りやすく、対象の同一性を担保しにくいものであった。(…)私たちは、確かに〈文化人〉という「何か」を想定するのだが、その中身や境界線を広く共有しているわけでもないのだ」(p326-327)

とあるんだが、そもそも「文化人」って言葉は本当に人口に膾炙してるの?と、疑問に思えてならないのだ。少なくとも自分は、(院生や研究者以外の人との)日常的な会話で「文化人」について話した記憶がないし、「文化人」という「何か」を想定することも、大学以外の場でははほとんどなかったように思う。

(同じことは「知識人」にも言える。「有識者」であれば新聞等でよく使われているので、「有識者って誰やねん!」みたいな感じで話題に上ることはあるだろうけど)


もちろん端的にいって、それはこれまでの自分が、「文化人」という「何か」を想定できる人々が集まる空間にいなかった、ってことなんだと思う(だからダメダメ研究者なのである)。でも、もしもこの本の著者たちや読者(そしていまの自分)にはその「何か」が想定できるというのであれば、実はそれこそが「文化人」という一つの〈界〉の存在を示しているのではないかとも思うのです。

要は、「結局『〈文化人〉について語れる人』が〈文化人〉になるんやない?」というのが、自分の率直な感想。(なので、自分にはやっぱりこの本がどうしようもなく遂行的に見えてしまう。だからといって、別にそれは全然悪いことではないのだけれど。)


…というわけで、この本を読んでこの本について語ってしまった以上、自分も今日から文化人を名乗ろうと思います。まだまだ未熟な文化人ですが、お見知りおきのほど、よろしくお願いします(笑)。