「ゴメンねゴメンね〜」の政治学。

 
自分は、福岡県の中でも熊本との県境に近い小さな町、八女で育った。子どもの行動半径なんて狭いものだし、いまだゲマインシャフトが色濃く残る「農村」地域だったこともあって、中学を卒業するまでは、基本的に八女が自分にとっての社会のほとんどだった。

(それでも、電車に乗ったことのない子が多くいるため、小学校の社会科見学で電車のきっぷの購入を「体験」させられるような社会の中で、毎年新幹線で東京の親戚の家に遊びに行っていたわが家は、明らかに異端だった。)


中学を卒業した後は、福岡都市圏の「郊外」になっている佐賀の高校に電車通学した。(「電車通学する高校生」は、自分の地元では極めて稀だった) そこで「農村」の外部で生活する人たちと出会って、初めて、自分がそれまで生きてきた社会が隔離された社会だったことに気づかされた。

「都市」や「郊外」に住む友人の家に遊びに行くと、必ず相手の親と『ミゾジリ君はどこに住んでるの?』『八女です』『まあ!それは遠くから本当に大変だったねえ』みたいなやりとりがなされて、その度に、自分の地元が同じ福岡でありつつ辺境とみなされていることに憤りを感じたのを覚えている。

福岡の中にも県内ヒエラルキー(博多>北九州>>久留米・大牟田>>>>筑豊・八女)がある訳だけど、九州内における県間ヒエラルキーもあるし、全国的な地域レベルでもヒエラルキーは当然存在しているのだろう。実際、いま住んでいる名古屋にしても、愛知県内/東海地区/東名阪というそれぞれのヒエラルキーへの過剰なまでの意識を感じることがよくある。つくばにいたときは、都民の茨城人に対する差別的な発言に激怒したこともあった。


…そんな経験があるので、地域ヒエラルキーの問題にはどうしても敏感になってしまう自分です。


たぶん、関東に住んでいる人にとっては、九州や東海の県間ヒエラルキーなんて、どうでもいい話でしかないと思う。でも福岡の「農村」住民にとっては、関東の県間ヒエラルキーも、同じようにどうでもいい話題でしかない。彼(女)らが、神奈川と埼玉と千葉と栃木と茨城の違いにリアリティを感じることなんて、おそらくない。説明したところで「東京の近く」という理解しかできないと思う。

でも、ここでふと思うのは、そんな人たちは、果たしてU字工事の漫才をどう思っているのだろう?ということ (すみません、実はこれが本題なんです)。


他にも北関東ネタを喋る芸人はいるけれど、この北関東ヒエラルキーって、たぶん関東以外の人(特に西日本の人)にはほとんどリアリティがない話題なのではないか。ないからこそドングリの背比べ話として面白がっているのかも知れないけれど、一方で、たとえば北陸ヒエラルキーをネタにする富山の芸人がいたとして、(「福井には負けとらんがやちゃ!」) U字工事と同様にウケるとは、正直思えない。

だとすると、やっぱり考えるべきは「東京に一番近い田舎」としての北関東が持っている独自性と政治性だろう。つまり、日本の「都市」の象徴としての東京と、それを取り囲む「郊外」そして「農村」の象徴としての北関東である。こうした象徴性があるからこそ、関東以外の人々でもU字工事の漫才を(何となくでも)理解することができるのではないだろうか。そこには関東の文化に自らのそれを投影するという、全国の人々の身体に内面化された、根深い東京中心主義が潜んでいるかも知れない。

でも問題はそれだけにとどまらない。もしも本当に、U字工事の漫才が、全国の「都市」「郊外」「農村」をめぐる関係を象徴するものとして理解されているのであれば、それは日本全国がこうした関係性の中に巻き込まれていることを示してもいるだろう。そのとき都市/郊外論は「多摩住民にとって,名古屋市民にとって,九州人にとって,つくば人にとって,八女市民にとって...『都市』『郊外』『農村』とは何か?」という途方もない問いに対し、それぞれのコンテクストの中で差異と共通項を見出していくという、恐ろしい課題に直面するのかも知れない。


何はともあれ、表面的には、日本は確かにファスト風土化してるかも知れないけれど、そこに住む人々のリアリティまでが、そんな簡単に画一的に「郊外」化していく訳じゃないってことだけは、いくら強調してもしすぎることはないと思う。


ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)

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さてご報告が遅れましたが、この4月より愛知淑徳大学現代社会学部の講師に着任いたしました。いまは福岡/つくば/東京/名古屋というそれぞれの文化の違いを驚き楽しみながら、新人教員として精進する毎日を送っております。名古屋近辺にお越しの際は、ぜひ声をかけてくださいね。